料理となまの哲学。

例えば料理という場面を考える。料理というのは面白くて、様々な感覚をフルに使う。もちろん味覚が中心だが、視覚も聴覚も嗅覚も使う。が、実は重要になるのが触覚である。それは、触覚という舞台で一つの表現を行うことに近い。そして、その舞台で一つの芸術作品を作る。もちろん美味しくなければいけない。ただ、美味しいということ以上に、その料理を食べる場面が、一つの物語の体験になっていなければならない。料理を物語の制作として行って行くことを考えなくてはならないようなのであるある。

制作と観照のあいだ

制作と観照、あるいは制作と思考の間のようなものはあり、その間には活動がある。この活動を推し進めるための哲学があっても良い。

ただ、元来哲学は思考の学問である。哲学化した段階で、もはや、それは、制作と思考の間ではなくなってしまう。

ただ、ほとんど哲学化されていないものとしての哲学はありそうである。それは、学問化以前の哲学、あるいは、生(なま)の哲学とでも言えそうな哲学はありそうである。そして、この領域で語られるべきことはあまりにも多い。

この辺の問題について、とにかく語って行くべきであるように思えてならない。

金儲けの方法哲学。

どうすれば金儲けができるのか。ものすごく大きな謎だ。もうどうにもならないという感じでもある。

ただ金が欲しいだけなら、株でもなんでもやればいいと思うが、能力を使って金儲けするとなると少し違う気がする。

感覚的には、やはり、他者とつながった瞬間から金儲けが開始されるというイメージだ。そこまで行くのが多分大変なんだろうなと思っている。

言ったことないこと。

言ったことのないことを言うというのがなかなか良い。

お金儲けにおける身体感覚みたいなことも問題かもしれない。

もっとがっちりかきたいなあ。

 

制作は、プロデュース型の作品を作らねばと思うが、そのイメージは、なんとなくだけど、建築の形になるが、設計は流石に面倒。やっぱり空間を使いたいなあと思うが、状況が作れない。

やっぱり展示の企画かな。この空間構成論は、自分の文章のなかで、少しだけ扱ってみることにしよう。少し書けばわかりそうな内容だ。

哲学と金儲け。

どんなに動こうとしても、それが単なる測定誤差のようなものに押しとどめられてしまうような経験もある。こんな時には、自分が今まで感じて来てはいるが、語ったことがないようなことを語ると良い。

そこで、何かを語ってみたいと思う。

 

まず自分が感じていることの一つ目は、制作によう哲学研究の方向性。

基本的に本を読むことがそれほど好きでなくても、哲学が必要になることがある。そんな時には制作をするに限る。作ることの中で考えれば良い。その具体的な方法論のようなものを考えてみても良いと思っている。

 

そして、二つ目は金儲けの話。どのように自身の能力を伸ばしてお金儲けをするのかという問題。この辺について、自分の文章のなかで語ってみたいと思う。