英語の才能

 英語の才能、あるいは語学の才能というものがあるように思える。以前テレビで、大学生が何カ国語も話せている状況を目にしたとき、まさに語学の才能というものがあるだろうということが思われた。

 語学の才能ということを考えてみると、語学の才能というのは、それ自身、まさに外国語を外国語的な思考において学んでいくことであろうと思える。そしてここには、外国語を理解するとき、その外国語そのものから自身の身体において感じられる行為的なイメージを感じていくことにおいてまさに外国語そのものを理解するということがあるように思えるのである。

 つまり、私たちにとって外国語を理解するということは、それ自身、まさに外国語を外国語そのものにおいて理解していくという回路があるのであり、この回路において、外国語を理解し、その外国語の内容を理解していくことにおいて、まさに自身の外国語学習を生きることになるということができるのである。そしてこのとき、私たちは外国語を端的に外国語におけるイメージの中で、そのイメージを捉え、イメージを捉えるということの中で、がいこくごを理解していくことになるということができるのである。そしてそのようにして自身の外国語を理解していくとき、そこには理解という行為は生じておらず、端的に経験という出来事が生じているのであり、つまり、私たちはまさに自身の経験そのものに生きることにおいて、まさに自身の外国語学習を生きていくことになるということができるのである。そしてこのとき、自身に執り行われるのは、外国語を学習することであるのではなく、むしろ、外国語を経験することであるということができるのであり、私たちはまさにこのような経験を生きることにおいて、自身の外国語を感じていくことになるということができるのである。

 そしてそのようにして自身が自信の外国語を体験していくことの中で、私たちはまさに自身の身体が外国語に慣らされていくことを感じ、そのような外国語に身体から慣れていくということを執り行っていくことにおいて、私たちは自身の外国語を自身の内部に形成していくことになるということができるのである。そしてそのようにして自身の内部に外国語が形成されていくとき、私たちは自身に聞こえてくる外国語を、あるいは、自身が読む外国語を自身の内部に形成されている外国語の尺度を使って理解していくことになるということができるのであり、だとすると、私たちにとって、自身の外国語を学ぶということは、それ自身、まさに自身の内部において形成されてくる自身の外国語の尺度を通して、外国語を理解していくことにおいて執り行われていくことになるということができるのである。

 そしてそのようにして自身の外国語そのものを理解していくことにおいて、私たちは同時に自身の内部にある外国語の尺度そのものを形成し、その尺度を通して、自身に体験される新たな外国語を理解していくことになるということができるのである。

 だとすると、私たちが自身の学びにおいて外国語を学習していくとき、私たちは何よりもまず、自身の内部に自身の外国語の尺度が形成されてくることを待つ必要があり、まさにこのことにおいて、外国語をできるようにするということに時間がかかるという状況が立ち現れてくることになるということができるのである。